『天気の子』が伝えたいことは?魅力についても紹介

『天気の子』は、私たちが生きる現代の閉塞感や孤独感を、東京という街を通して描いたのが印象的でした。

この記事では『天気の子』が伝えたいことや魅力について、私の考えたことを紹介していきます。

個人の解釈であることを前提に楽しんでいただけると嬉しいです。

それではいきましょう。

『天気の子』の魅力

2つあります。

・綺麗な映像と鳥肌の立つ音楽
・見る人によって賛否両論

それではいきましょう。

綺麗な映像と鳥肌の立つ音楽

前作の『君の名は。』に続いて、映像の綺麗さと音楽挿入時の鳥肌がすごかったです。

映像についてですが、本作は「言の葉の庭」と同じように、雨で満ちている東京が描かれていました。

その映像美は、まさに現実かと思わされるくらいでしたが、その真骨頂は雨で埋もれる東京へ陽が差していくシーンだと思います。

東京に晴れ間が広がり、一面に陽が差す場面はとても神秘的でした。

あとポテチチャーハンがものすごく美味しそう。

そして、音楽についても鳥肌が立ちます。

担当したのは「RADWIMPS」でした。

特に帆高と陽菜が空の上で再開した時に流れた「グランドエスケープ」が良かったです。

見る人によって賛否両論

どの映画でもそうですが、『天気の子』は見る側の年齢などによって、感じ方の差に幅があることが魅力です。

受け手によってここまで評価が変わる作品は、なかなか無いと思います。

新海誠監督も、この映画は賛否両論になると発言していました。

本作で特に感情移入しやすい人物と言えば、帆高と圭介でしょうか。

帆高はまっすぐに進む少年として描かれていて、「世界を選ぶか」、「陽菜を選ぶか」という大きな選択をしています。

圭介は常識的な大人として描かれており、帆高と関わる中で抱える苦悩や決断が印象的でした。

どちらも「子供」と「大人」という決定的な対比をされています。

このように、見る側の年齢によって感じ方が大幅に変わってくることが、本作の魅力の1つではないでしょうか。

『天気の子』が伝えたいこと

私は『天気の子』から2つのメッセージを受け取りました。

・”こうするべき”よりも”こうしたい”で選択して欲しい
・世界は誰かの犠牲で成り立っている

それではいきましょう。

”こうするべき”よりも”こうしたい”で選択して欲しい

”こうするべき”と考えるよりも”こうしたい”で物事を選択して欲しい、ということを伝えたいのではないかと考えました。

本作は”こうするべきだ”という大人と、”こうしたい”という子供の対比がなされています。

圭介は常識的な大人として、帆高はまっすぐに進んでいく子供として描かれていました。

”こうしたい”と考えて動くことって難しいですよね。

年を重ねるほど、”こうするべきだ”と自分に言い聞かせるようになります。

リスクを取らず、自分の積み重ねてきた道を崩さないように考えていくように。

圭介も最初は、犯罪を重ねていく帆高を止める役割をしていました。

子どもの引き渡しの手続きもあったので、なおさら面倒事を増やせなかったのでしょう。

ですが、物語の終盤、圭介は帆高の背中を押す選択をしましたよね。

帆高と警察が拳銃を構え合っているシーン

俺はただ…もう一度あの人に…会いたいんだ!!

新海誠『天気の子』:森嶋帆高

この言葉を聞いてハッとしたのか、帆高の味方をしました。

圭介にとって、得になるはずのない選択なのに。

おそらく、過去の自分と帆高を重ね合わせていたのかなと思います。

帆高を”警察に突き出すべきだ”よりも、帆高の”背中を押してやりたい”。

こういった圭介の選択を描いていました。

そして、帆高についても選択をしています。

人々が望む世界を選ぶのか、陽菜の命を選ぶのかという選択です。

帆高は、”こうしたい”という思いで、陽菜を選びましたよね。

どちらも常識に捕らわれず、自分の”こうしたい”を優先して選択しています。

こういった圭介と帆高の選択を描いていることから、「”こうするべき”と考えるよりも”こうしたい”で物事を選択して欲しい」、ということを伝えたいのではないのかなと思いました。

世界は誰かの犠牲で成り立っている

『天気の子』は、世界は誰かの犠牲で成り立っている、ということも伝えたいのかなと思いました。

本作のヒロインである陽菜は、祈ることで晴れ間をつくることが出来る能力を持っています。

『天気の子』は、そんな陽菜が狂った天気に運命を翻弄されていく様子が描かれていました。

物語の途中、陽菜は人柱として空へ消えたことで、世界は晴れ間を手に入れます。

その時に帆高が言ったセリフです。

「陽菜さんは…陽菜さんと引き換えに空は晴れたんだ!みんな何も知らないで、こんなのってないよ…」

新海誠『天気の子』:森嶋帆高

このように、あの世界で生きている人間たちは、陽菜と引き換えに晴れ間を手に入れていることを知りません。

ですが、現実世界の私たちも、世界がどれだけの人の犠牲で成り立っているのか分かりません。

もし分かっていたとしても、それを静観しています。

そして、1つだけ言えることは、陽菜のように犠牲となっている人がいて世界は回っているということです。

このようなことから、「世界は誰かの犠牲で成り立っている」ということを伝えたいのかなと思いました。

まとめ

今回は映画『天気の子』が伝えたいことについて、私なりに考えたことを紹介しました。

この記事では『天気の子』が伝えたいことを2つ紹介しましたが、まだまだメッセージはあると思います。

ぜひ、あなたもメッセージを受け取ってみてくださいね。

もしこの記事で、あなたの『天気の子』への解釈が深まったら嬉しいです。

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