皆さんこんにちは、アイスです。
この記事では私なりに考えた、『聲の形』が伝えたいことを紹介しています。
という方は最後まで見てください。
あくまで1つの考えだと思って読んでいただけると幸いです。
ネタバレありです。まだ見ていないという方は注意してください。
『聲の形』-あらすじ
ガキ大将の小学生「石田将也」のクラスに、転校生の「西宮硝子」がやってきました。
西宮は、先天性の聴覚障害を持っていることがきっかけとなり、石田にいじめられるようになります。
しかし、いじめていた石田が、今度はいじめの標的になるように。
西宮は転校し、石田は後悔を抱えながら、中学を孤独に過ごしていきます。
しかし、とある手話サークルで、西宮と再会し交流が続くように。
そんな2人を中心に、人間関係は変化していきます。
『聲の形』は、「自分は生きていていいのだろうか?」「自分はいなくなった方がマシなんじゃないだろうか?」
そんな葛藤を持った人間たちが、前を向いて進んでいく様子を描いています。
映画『聲の形』-作品概要
原作 | 大今良時 |
監督 | 山田尚子 |
脚本 | 吉田玲子 |
出演者 | 入野自由 早見沙織 悠木碧 小野賢章 松岡茉優 ほか |
制作会社 | 京都アニメーション 映画聲の形制作委員会 |
『聲の形』-聲の形が伝えたいこと
ここからは私なりに考えた、聲の形が伝えたいことを書いてきます。
人と関わることの難しさ
「人と関わる(思いを伝えたり、相手を理解する)ことの難しさ」を伝えたいのではないのかなと思っています。
聲の形は、主人公「石田将也」と「西宮硝子」が互いの気持ちを伝えていく物語です。
人との関わり合い、「コミュニケーション」ですが、皆さんはどうですか?
「得意だよ!」「好きだよ!」と、声高々に言えるは多くないと思います。
必ず1度は様々な理由から、人間関係で悩んだことがあるはずです。
そんな人と関わる難しさについて、まずは石田と西宮の視点から考えてみたいと思います。
石田将也からの視点
石田は小学校時代、西宮のことをいじめていた張本人です。
西宮を人間扱いせず、まるで宇宙人と接しているような態度でした。
そんな石田は、「いじめっこ」というレッテルを貼られ、逆にいじめられてしまいます。
中学からは孤独な生活を送るように。
人の顔に×印を描き、人と関わることをやめました。
そして、「自分はいないほうが良い人間」だと考えるようになります。
ですが、西宮たちと関わっていくことで、石田の心も変化していきます。
映画ラストシーンの文化祭で、人の顔から×印がはがれていくのです。
殻を破り、人と関わっていくことを決意するのでした。
しかし、ここまでたどり着くまでに、様々な苦悩がありました。
一度人間関係でトラウマを抱えてしまった石田を描いたからこそ、人と関わることは難しいということを伝えたいのではないかと思いました。
西宮硝子からの視点
先天性の聴覚障害を持ち、いじめを受けながらも耐え続け、加害者である石田を友達とした、優しく強い心の持ち主です。
しかし、奥底にある自分の本心はいつも抑え続け、いつしか自殺への願望が高まっていました。
聴覚障害を持つため、スムーズにコミュニケーションができないことによって、周りを傷つけた(と思い込んでいる)ことが理由です。
笑ったり謝ったりして、その場をしのぐようになってしまっていました。
そして劇中での「自分のことが嫌い」という発言。
西宮は自分自身さえも肯定できなくなっています。
ですが、西宮の生きてきた人生において、自分自身を嫌いになってしまうには、十分すぎる理由がたくさんありました。
- 自分がいるから、家族がバラバラに
- 自分がいるから、佐原が学校に来れなくなった
- 自分がいるから、せっかく仲良くなった友達たちが喧嘩別れした
「自分がいるから周りの人たちを不幸にしている」
このように、西宮は自分を追い込み続けていました。
そして、選んだ選択が「自殺」です。
この選択は、周りに自分の思いを伝えられないからこそ選んでいます。
聴覚障害を持つからこそ、幼少期から他者と深くコミュニケーションを取ることができず、ずっと苦しんでいました。
ですが、石田から「君に生きるのを手伝って欲しい」という言葉が告げられます。
今まで「自分のせいだ」と考えてきた西宮にとって、この言葉は大きな意味を持ちました。
この言葉は西宮にとって嬉しかったはずです。
だからこそ、あの橋のシーンはおそらく、初めて2人が理解し合えた瞬間だと思っています。
理解し合うまで、2人は傷つき傷つけながら生きてきました。
そんなすれ違いばかりの2人の様子は、まさしく「人と関わることの難しさ」を表現しています。
このことから、人と関わることの難しさを伝えたいのではないのかなと思いました。
似ている2人から
次は似ている2人からについてです。
実は、石田と西宮には共通点が多くあり、似通った者同士であることが強調されています。
- お互い母子家庭
- 名前に「しょう」が付いている
- 過去にいじめられていた
- 自殺を選んでいる
このように共通点があるのですが、2人が手を取り合うまでには、とても多くの犠牲や時間がかかりました。
このように同じ共通点を持ちながらも、2人がすれ違うさまを描いていることから、「人と関わることの難しさ」を伝えたいのかなと思いました。
描写から
この作品は、「人と関わることの難しさ」を表現している場面が多くあります。
西宮の告白
映画の中盤、西宮は石田に告白しました。
手話ではなく、声という形で。
ですが、「すき」という言葉は「つき」と誤解され、その声は届きませんでした。
耳が聞こえず、発声が難しいからこその人と関わることの難しさを描いています。
石田の×マーク
石田は小学生の頃、西宮をいじめていましたが、逆にいじめの対象となってしまいます。
それがきっかけで、耳をふさぐように周りの人間の声を聞こうとしなくなりました。
周りの人間が自分の悪口を言っていると思い込み、人と関わることに恐怖を感じています。
こういうこと皆さんにもあると思います。
(周りのひそひそ声…もしかして私の悪口言ってる?)
私もたまにあります。
石田はこのように思い込むようになり、人を受け入れることが出来なくなったため、「自分が悪い、自分が迷惑をかけている」と考えるように。
しかし、よく見ると分かるのですが、周囲の人間は石田に話しかけようとしている、もしくは話しかけています。
声を形にできる手段があるのに、それを使わず殻に閉じこもっているという意味での、人と関わることの難しさを描いています。
こんな風に、思いを言葉で伝えたいのに伝えられない西宮と、思いを言葉にできるのにそれをしない石田という2人が、対照的に描かれているのです。
これらの描写がされていることから「人と関わることの難しさ」を伝えたいのかなと思いました。
『聲の形』-「聲」を考察
簡単な考察です。
あくまで妄想なので、こういう考えがあるよね程度に思ってもらえると嬉しいです。
「聲」という字には、声以外にも人と関わる方法はたくさんあるという意味を込めたのかなと思います。
聲には声・手・耳という意味が含まれています。
作中でも
- 声によるコミュニケーション
- 手話によるコミュニケーション
- 文化祭ラストシーンで耳を澄ました石田
このように、声・手・耳を使っているシーンがあります。
人と関わることは、声を出して伝えること以外にも、「手を使って思いを伝える、耳を使って相手の気持ちを聞く」という方法がある。
そんなことを伝えたくて、「聲」という漢字を使ったのかなと思いました。
『聲の形』-まとめ
今回は『聲の形』について私なりに考えた、『聲の形』が伝えたいことを紹介してみました。
いじめが描かれていることから、その生々しさが嫌だと思う人も多くいると思います。
ですが、傷つきながらもお互いを理解し合っていく様子に涙する作品です。
ぜひ1度、見てみてくださいね。
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