皆さんこんにちは、アイスです。
この記事では『言の葉の庭』の魅力や何が言いたいのか、私なりに解釈したことを紹介しています。
ぜひ、『言の葉の庭』の魅力や何が言いたいのか知りたいという人は最後まで見てくれたらなと思います。
ネタバレありとなっています。あらかじめご注意ください。
それではいきましょう。
『言の葉の庭』-あらすじ
靴職人になる夢を持っている高校1年生の「孝雄」は、雨の日が大好きで雨の降る日は学校の1限をサボって1人で靴のデッサンをしていました。
そんなある雨の日、スーツ姿で1人、ビールとチョコレートを楽しみながら座っている「雪野」と出会います。
雪野は孝雄との別れの際、「雷神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ。」という短歌を残し、去っていきました。
そうして2人の交流は続いていき、気付けば孝雄は雨が降ることを祈るように。
孝雄は雪野に惹かれていきます。
この作品はそんな2人の関係を描いています。
『言の葉の庭』のキャッチコピーは「愛”よりも昔、”孤悲”のものがたり」です。
キャッチコピーにもある通り”恋”の物語ですが、「人生の先行きの見えない2人が歩く練習をする」という視点で見てみると、また違った見え方がします。
『言の葉の庭』-魅力
『言の葉の庭』の魅力は3つです。
・「雨っていいかも」と思える
・ストーリーの儚い美しさ
1つずつ見ていきましょう。
作画の美しさ
新海誠監督の作品はどれも街並みや風景など、すべての作画が美しく幻想的です。
とくに本作品は、2人の織りなす日常に、美しく雨が組み込まれています。
本来うっとおしいと思ってしまいがちな雨ですが、本作は雨によって完成されていました。
その完成度は、現実にあるよりも現実なのではないかと思わされるほど。
このように、雨の描写の美しさが際立っているのが『言の葉の庭』の魅力1つ目です。
「雨っていいかも」と思える
魅力2つ目は、この映画を見ていると「雨っていいかも」と思えます。
皆さん雨は好きですか?正直、私はそこまで好きではないです。
ですが、この映画を見てから「雨っていいかも」と思うようになりました。
後述しますが、本作品は多くのシーンに雨が組み込まれていて、まるで雪野の避難場所と思えるような作りがされています。
雨の日だと、人によっては気分が下がったり、憂鬱になったりしますよね。
ですが、本作の登場人物たちには、雨の日には決まっていく場所がありました。
行く理由が例えネガティブでも、雨の日には決まって心を休められる場所があるとしたら、それだけでほんの少し心が前向きになります。
もし雪野や孝雄のように、雨の降る日のみ行ける場所で、読書や趣味に没頭出来たら。
『言の葉の庭』は、自分だけの雨が降ったとき専用の居場所をつくれるのなら、「雨っていいな」と思えます。
ストーリーの儚い美しさ
ストーリーの儚い美しさも『言の葉の庭』の魅力です。
どこに儚さがあるのかと言うと、私は2人の関係性だと思っています。
この映画は27歳の大人と、15歳の高校生の関係性を描いた作品です。
恋人というにはいささか年齢が離れているし、友達とも言い難い関係性であるため、2人の関係を一言で表すことはできません。
雪野の社会的な立場といった面からも、踏み込むことが出来ない孝雄の領域に、結ばれない儚さを感じさせられます。
また、2人の雨の日にのみ会えるという秘密の関係性も、織姫と彦星のような関係性を感じさせられ、儚さを加速させています。
最後の最後、2人は共存することをやめて自分の足で歩くのですが、その決断に胸を打たれますし、どこか成長したかのような美しさすら感じさせられました。
このように、ストーリーからどこか儚い美しさを感じられるのも『言の葉の庭』の魅力となっています。
『言の葉の庭』は何が言いたい?
ここからは『言の葉の庭』は何を言いたいのか、私なりの解釈を書いていきます。
こんな考えもあるよね程度で楽しんでいただけると嬉しいです。
歩く練習をしてもいい
私は『言の葉の庭』は「歩く練習をしてもいい」ということを言いたいのかなと思いました。
ここで言う「歩く練習」とは、辛すぎるときや葛藤している時は避難して休んで、誰かと支え合いながら生きていくということです。
雪野は高校教師でありましたが、一部の生徒から執拗な嫌がらせを受けたことがきっかけで、1人では歩けなくなっていました。
この映画を見た人の中にも、雪野のような辛い状況になり「自分の足で歩けない、歩けなくなるかも」という考えになった人がいると思います。
この映画では、そんな雪野の避難場所として雨に包まれた新宿御苑がありました。
このことから、「辛い時は避難場所に行って、心や体を休めてもいい」というメッセージを感じられます。
そして、そこに孝雄もやってきて状況が変わっていきました。
雪野は孝雄に歩くための靴をつくってもらっていたのです。
この「靴をつくる」ということには、実際に靴をつくるという物理的な意味と、精神的支柱になるという2つの意味が込められていると思っています。
雪野にとって孝雄の存在は、この先の人生でもかけがえのないものになっていき、少しずつ心が回復していきました。
味覚障害でビールとチョコ以外に味を感じられなくなってしまいましたが、孝雄の作る弁当からは味が感じられるようになっています。
ラストシーンでも明かされますが、雨の新宿御苑で過ごす孝雄との時間に救われていたのです。
「今が幸せ」という時間を過ごせると、人の心は満たされていきます。
つまり雪野は、雨の新宿御苑で孝雄に会うことで心を満たし、もう一度歩く練習をしていたのです。
そう考えると、雪野が裸足で孝雄を追いかけたシーンは、孝雄のつくる靴が無くても1人で歩けるようになったことを暗示しているとも考えられます。
また、歩く練習をしていたのは孝雄も同じでした。
自分の夢に対して色々と葛藤していましたが、雪野に出会えたことで、靴職人への夢に歩き始めます。
このことから、雪野と孝雄の様に「辛い時や葛藤しているときは避難して、お互いに支え合いながら生きてもいいんだ」ということを言いたいのかなと思いました。
『言の葉の庭』-まとめ
この記事では『言の葉の庭』の魅力や何が言いたいのか、私なりの解釈を紹介していきました。
本作は恋の物語ですが、雪野と孝雄が歩く練習をしているという目線で見ると、恋愛とは違ったものが見えてくると思います。
ぜひ、恋愛ものとして見ていた人は、違う視点で見てみてください。
いろんな感情が芽生えてくると思います。
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